観音するということ。
久しぶりに清水寺を訪れた。清水寺内にある善光寺のご住職であった福岡精道様とは遠戚にあたり、学生の頃何度か訪れることがあったが、久しぶりの訪問であった。私が当時精道様を訪ねたときに忙しい時間を割いて夕食に誘って頂いたことがあった。二人で注文をしてビールを頂いたとき「おいしーねえ」と満面の笑顔でおっしゃったことが印象に残っている。目の前の幸せを素直に感じることが出来てまた表現できるということは素晴らしいことだと思った。清水寺は観音信仰で知られる奈良仏教の単一寺院であるが、観音とは音を観ると書く。このときの音は、響きであり、空間であり、場である。観することはすなわち真理を観察すること。エネルギーを頂くという主体的な積極性と場を知るという客観的消極性が同時に存在している状態が観音ではなかろうか。と久しぶりに訪れた清水寺で観音した。あのときの精道様の笑顔が全てを表現しているようである。
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